PROFILE

  

 いわゆる団塊の世代。八王子在住。

 生まれは、東京・吉祥寺ですが、幼年期を東京・三鷹市の三鷹台と、信州・松本で過ごしました。

 三鷹台では第五小学校に2年生の6月ごろまで通っていました。よく校門前で子供相手に物売りが来ていましたね。また今はどうなっているかわかりませんが、学校周辺には雑木林があって、そこで遊んだり、玉川上水沿いに広がる畑で凧揚げをした覚えがあります。井の頭線の三鷹台駅から吉祥寺寄りの南側は、田んぼがあり、その横を流れる小川にはザリガニがいて捕まえて遊んでいました。夏には、暗くなって校庭で映画会が開かれたりしていました。この頃よく飛行機からのビラ撒きがあって拾い回ったこともありました。

 小学校時代(清水小学校)の松本は、今でも印象深い。5年弱しか居なかったが、充実していたのか、非常に長い期間に感じます。特に冬の思い出が多い。冬は4シーズン過ごしたのですが、夜しんしんと積もる雪、朝の凍りつく寒さで井戸に手がくっつき、でも日中の暖かさで、積もった雪が解けて残念に思い、お風呂帰りはタオルを凍らせて板をつくり、近くの広場に雪で小さなスケート場を作って下駄スケートで滑り、学校へは腰手ぬぐいをして足袋に下駄を履いて行き、竹馬を作って雪の中を歩き・・・。そして、“糸まり”で野球をしたり、開園間もなかった松本城脇の公園の電気自動車に入り浸りになったり、城山下の空き地で土器探しをしたり、模型づくりで‘なわて’の「東京堂」にしょっちゅう行ったりと。。小学生のときに校庭で歌われた「信濃の国」は今でもカラオケでよく歌っています。

 中学時代(緑ヶ丘中学校)は、岐阜の関市。刃物の町で有名です。市内の至る所にある刃物工場から、旋盤の音が聞こえていました。音楽好きになったのはこの頃で、関百貨店でレコードを買っていました。なぜかタンゴが好きでしたが、クラシック音楽漁りは、大学生の時まで続きます。中学ではバスケット部に入っていました。練習で学校の裏山によく駆け上がっていました。5月にツツジが山一面に咲いていた記憶があります。

 高校は、下宿しながら岐阜市内の高校に通っていました。大衆書房、自由書房へは、土曜の午後になると自転車で出かけていました。試験後は、決まって柳ヶ瀬で映画を見ていました。「ドクトルジバゴ」は、感動して、続けて2回見てしまった覚えがあります。(当時は入れ替えなし)

 大学は、東京でしたが、親の移動と共に、東京・井の頭、埼玉・加須、千葉・柏に住んでいました。私の旅行好きはこのころから始まりました。所帯を持つまでに日本中のめぼしいところは、すべて見て回りました。(そのつもり) また、大学時代に写真に凝り出し、DPEの一式を買い揃え、雨戸を閉めて現像したものです。社会人になってもしばらく続き、写真機の購入にはかなりお金を注ぎ込みました。

 東京・町田に所帯を持ってからは、子供の小さいうちは、休みといえば近くの公園に行ったり、キャンプやスキーを楽しんでいました。

 現在、八王子に住まいを変え、3人の子供たちも親元から離れましたが、週末に来る孫を楽しみに夫婦二人の生活に戻りました。

 

小学校

芋の会(会社)

中学校

 

同窓会(高校)

 

懇親会(大学)